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80年前のハリウッドスター「早川雪舟」<2>

ゴールデングローブ賞も終わり、後はアカデミー賞の発表を待つばかりのハリウッド。「硫黄島」や「バベル」のヒットで日本勢の活躍が期待される今年だが、今回は先々週に引き続き、今から90年前のハリウッドにタイムスリップしてみよう。日本人としてハリウッドの頂点を極めたスター、早川雪舟の物語、後編である。

さて、ひょんな事からハリウッドで映画スターとしてデビューすることになった雪舟。最初の映画「タイフーン」が大ヒットし、ハリウッドで順調なスタートを切った彼は、すかさず次の大波に乗る。映画の父としてハリウッド史上に燦然と輝く大監督、セシル・B・デミルから声がかかったのだ。そして出演したのが「チート」。無声映画時代の傑作として今も語り継がれているこの作品は、雪舟の代表作として、彼の人気を決定的なものにした。

この「チート」、雪舟が演じているのは意外なことに悪役だ。借金を抱えた上流階級の貴婦人にお金を貸した日本人大富豪、トリイ(雪舟)は、彼女に自分の愛人になる事を強要する。さらに、自分の女であることを示すために、彼女の肌に焼印を押してしまうという衝撃的な内容で、当時のアメリカに大きな波紋を投げかけた。何しろ時は20世紀初頭、今とは比べ物にならないほど人々がナイーブだった時代である。女性に焼印を押すなんて、これ以上ショッキングなシーンはありえなかった。

こんなオソロシイ映画の敵役なのだから、人々に嫌われても良さそうなものだが、あにはからんや、雪舟は全米女性の人気の的になってしまう。その東洋的なルックスのよさと、ちょっと悪のニオイのする雰囲気を持った彼は、冗談抜きに全米女性のアイドルになっていくのだった。主演する映画は次々大当たり、1920年代には、当時のトップスターだったチャップリンと人気を二分するところまで上り詰める。今のトム・クルーズやブラピも目じゃないほどのモテ方だったのだ。

当時のエピソードを一つ紹介しよう。プレミアのため、ハリウッドに今も残るエル・キャピタン劇場にやってきた雪舟。リムジンのドアを開けると歩道と車の間に水溜りが。すると、雪舟を目当てに集まっていたうら若きアメリカ人女性たちは、自分の着ていた毛皮を脱いで、水溜りの上に被せたという。優雅な微笑みを振りまきながら、戸惑いもせず毛皮の上を歩む雪舟。いまもハリウッドに伝えられる逸話である。そんな彼につけられたあだ名は聖林王。Holly=聖なるWood=森の王、つまりハリウッドの王様と言うわけだ。白黒映画時代の大スター、ハンフリー・ボガードは、まだ無名の頃にそんな雪舟を見て、いつかは俺もああなってやる、と心に誓ったと言う。

当時の雪舟がいかに凄かったかを物語る一枚の写真がある。1917年、ハリウッドに城が誕生し、ロサンゼルス住人の度肝を抜いた。雪舟が自分の住まいとしてハリウッドに建築した、ハヤカワキャッスルである(写真)。写真を見ても分かるとおり、まるで中世ヨーロッパのお城。今のセレブの豪邸なんて目じゃないのだ。雪舟はこの城で当時のハリウッド関係者を集め、パーティー三昧に耽っていたという。

この手の逸話はキリがない。ある日、撮影の息抜きにラスベガスでギャンブルに嵩じた彼は、総額100万ドル負けてしまった。100万ドルといったら今のお金でも一億円以上だが、何しろ今から80年くらい前の話。楽勝で30億円くらいにはなるだろう。しかし、この話のハイライトは金額の大きさではない。これだけのお金を一気に失ってしまったにも関わらず、ダンディーな雪舟は、ちょっと肩を竦めただけで、葉巻を咥えて悠然とカジノを去ったと言う。こういう話は全米に伝えられ、雪舟伝説はますます膨れ上がっていった。

やがて、絶頂を極めた彼の人生に翳が見え始める。時は第二次世界大戦前、日米関係は悪化の一途を辿り、カリフォルニアでは日本人排斥運動が起こる。それでも雪舟の世界への思いが衰える事はなかった。ハリウッドが駄目ならヨーロッパと、フランスに渡って舞台「バタイユ」をぶち上げ、パリっ子を熱狂の渦に巻き込んだかと思うと、今度はロンドンで「サムライ」というショーを行い、これまた大成功。世界を舞台に八面六臂の活躍を続ける。しかし、ヨーロッパもやがて戦場になっていき、雪舟は帰国を余儀なくされる。

そして日本の敗戦。すでに過去の人になったかに見えた雪舟は、焦土となった日本で静かに余生を送ろうとしていた。そんな彼の元に、一つのメッセージが届く。送り主は、当時のトップスター、ハンフリー・ボガード。無名時代に雪舟に憧れ、共演することを夢見ていたボガードは、押しも押されぬ大スターになった今、夢を叶えるべく雪舟に出演を依頼したのだ。かつての“ファン”ボガードの後押しにより「トーキョージョー」に出演、ハリウッドに返り咲く事になった雪舟。流れは再び彼に傾き、1957年、晩年の代表作となる「戦場に架ける橋」でイギリスの名優デヴィッド・ニブンと共演を果たし、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。68歳にして、再び銀幕の頂点に達したのだ。

三船敏郎、松田雄作、渡辺謙。戦後、多くの日本人俳優がハリウッドに挑戦し、そのうち何人かは大きな足跡を残している。しかし、かつてセッシュウ・ハヤカワが達した栄光の極みに達した人はいまだかつてひとりもいない。そして、そんな凄い日本人俳優がいたことを知る人も、もはや殆ど居なくなってしまった。

生前、成功の秘訣を聞かれた彼は、こんな言葉を残している。「人生で大事なのは、倒れない事ではない。何度倒れてもその度に立ち上がる事なんだ」


TEXT BY 岩下慶一

2007年01月25日 16:44

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